SAGANO BLOG

先輩からのメッセージ (9月21日掲載文の続き)
 


 社会で求められる力として「問題解決能力」や「コミュニケーション力」があげられることが多いですが、今一つ内容があいまいになりがちです。しかし今回寄稿していただいた先輩は、読み手(後輩)の立場に立って、具体的に表現してくださっています。
「相手を思いやる」、良きお手本だと思います。


2003年京都こすもす科自然科学系統卒業
市立福知山市民病院血液内科
西山 大地


■医師のやりがい、困難な点
 一般的に、病院には何かしらに困った人達(患者さん)が集まります。しかも生活や生きていく上において、ある程度「あきらめられない・後には回せない困り事」を抱えています。その問題点を的確にとらえ、"最適解"を提供することで、その人たちに「大きな幸せ」を提供できることは、我々にとって一番のやりがいになります。やや回りくどい言葉で表現しましたが、単に「病気を治す」だけでなく、その患者さん・家族に寄り添い、その場その場での最善の方法を模索していくことが、我々の仕事であるとつくづく感じています。良くなって退院されればそれは一番良いことですが、例え患者さんが亡くなられたとしても、様々な知識や方法によってどのようによりよい最後の時間を提供するかが重要であり、それを達成できた時は患者さん・家族から感謝の言葉をいただける、そのことが、どんなに日々の仕事が忙しくても継続していける我々医療従事者の"やりがい"につながっています。

逆に困難な点も多々あります。今の医学でも治らない病気は多々あり、「治癒」をあきらめないとならない時は苦しい気持ちになります。また、自分の采配が患者さんの人生に大きな影響を与えるため、「自分以外の医者だったらもっと良い結果だったのではないだろうか」と日々自問自答の繰り返しです。更に、医学というのは不確実な要素が多く、データ通り、予定通りに行かないことだらけです。患者さんがいつ体調悪くなるか、いつ事故に出くわすかなど分かるはずもなく、"不測の事態"に対応し続けないといけない点は、自分の時間や自分の家族の時間をある程度犠牲にして成り立っていると思います。一般的な家庭とは違う苦労を自分の家族には与えており、家族に申し訳ないと感じずにはいられません。


■この道に進むためには高校時代に何をするべきか
 もちろん受験勉強を頑張り医学部に合格するだけの実力をつけることは重要なことです。それ以外でも、上述した通り、「不確実な要素に立ち向かい、最適解を見出して解決していく力」は最も重要なことと考えます。いわゆる、「問題解決能力」です。それはどのように培われるか、日々の高校生活の中に重要なことは沢山あると思います。例えば、部活動においてどのようにすれば勝利を得られるか、そのための練習をどうしたらよいか、突然レギュラーに欠員が出た時、どうカバーするか、そういった場合を考えてA案・B案を日頃から想定して考えているか、など。文化祭の出し物の制作過程にも修学旅行の計画を立てる過程にも、受験勉強に取り組む過程にもちりばめられていると考えます。そういったことに、どれだけ真剣に熱く本気で打ち込むか、その繰り返しがどの職業に就いたとしても必要になってくる「問題解決能力」につながると信じています
 また、自分の考えを人に伝える力、いわゆる「プレゼンテーション能力や説明力」は人を相手とする仕事ではとても重要となる力です。どれだけすごい事を考えていても伝わらなければ世に広まりません。どれだけ日々勉強し患者さんのために尽くしていても、患者さんの理解力に合わせた説明、ニーズに合わせた説明ができなければ、理解の齟齬が生まれトラブルにすらなります。得た知識をかみ砕き、それをどのように分かりやすく説明・プレゼンテーションするかについては、人を相手にする仕事に就いたときにはどこででも必要となってきます。そしてそれが、国際言語である英語で行うことができればなお良く、英語でのコミュニケーション力は高校時代に培っておくべき一つの能力と考えます(参考サイトを後述※)。
 最後に、「人の気持ちをくみ取る力」「思いやりの気持ち」、この辺は友人や先生との高校生活、クラブ活動、地域サークル活動を通して洗練されると思います。高校生活を熱く一生懸命、本気で過ごすことの一つ一つが糧になると確信しています。

学会発表にて


■最後に
 私は嵯峨野高校時代、地学部の部長として活動し、特に天体観測を中心に宇宙に思いをはせていました。その時のメンバーとは今でも強い繋がりでつながっており、お互いの結婚式やふとした仕事でのコラボレーションなどで更に繋がりが強化していっています。人生において自分が出会う人など限られています。高校生活という青春の時間を共に過ごした仲間や恩師というのは一生の宝物になります。本気でぶつかり、本気で悩み、本気で考え、その一つ一つがきっと将来の自分の糧につながります。嵯峨野高校はとてもユニークな生徒が集まる学校と思いますし、とてもユニークな先生方が多いと思います。そんな多様性の集まりの中で、本気で過ごした時間は、きっと自分を豊かにし、自分が社会に貢献する立場になった時に大きな力になると確信します。みなさん、頑張ってください。

 2021年診察室にて

 
■おまけ
※国際活動に興味のある皆さんに参考となるサイト♪
私の弟がJICA(Japan International Cooperation Agency; 国際協力機構)で活動し、現在は次のステージで活躍中です。また、弟の奥さんもNETFLIXなどの海外コンテンツの字幕翻訳やブログ活動など、子育てしながら海外で活躍中です。もし興味があれば一度覗いてみてください♪
こういったものは"縁"の積み重ねだと思います。皆さんの新たな可能性の扉を開く一助になればと思って紹介させていただきました。


↓↓青年海外協力隊!ソロモン!教師! - ライブドアブログ (2015年7月~2017年3月)
//blog.livedoor.jp/yn_34241030/archives/2015-07.html (2015年7月)
//blog.livedoor.jp/yn_34241030/?p=5 (2017年3月)

↓↓SAFARINA: 海外・国内のおでかけ旅行記録
https://safarina.net/


以上

 

先輩からのメッセージ

 今回の先輩は、以下の文中にもありますが、勉強はもとより、部活動、学校行事など、とにかく目いっぱいの高校生活を送っていた先輩です。得意・不得意、好き・嫌いに関わらず、どの科目にも熱心に取り組み、教養のすそ野を広げていました。興味・関心のある分野が多岐にわたる生徒は多数いますが、地道な学習に裏打ちされた彼の姿勢は常に「本気」だったと言えます。目標を定めてからは、その実現に向けて粘り強く努力され、現在、地域医療現場で多くの人々の支えとなっておられます。
 ますます多忙を極める地域医療現場にありながら、後輩へのメッセージ寄稿を依頼しましたところ、快諾していただき、業務の合間を縫って送ってくださいました。

■自己紹介

 現在、京都府北部の市立福知山市民病院で血液内科を専門とし、内科・救急を通して地域医療を実践している、西山大地(37)と申します。2000-2003年に嵯峨野高校京都こすもす科自然科学系統で学びました。浪人を経験した後、奈良県立医科大学で医学を修学し、医師となってからは初期臨床研修・後期研修、京都府立医科大学大学院医学研究科血液内科学で専門性を深め、現在に至っています。今後も京都北部地域(ある意味過疎地域)で医師として地域医療を実践し、地域の方々の健康と安全を守るために貢献していきたいと考えています。

■なぜ医療の道を選んだか

 元々京都北部の福知山市(三和町)で幼少期を過ごしていたため、嵯峨野高校へは下宿生(寄宿生)として進学しました。私の学年は3人の下宿生が在籍し、高校1年から親元を離れて生活していました。嵯峨野高校を選んだ理由は、単純に"面白そうな高校"と直感が働いたからです。京都文化論・超伝導の実験など、大学顔負けの研究をするなど独自性が輝いていました。今でこそ大学進学や受験などで有名ですが、私は当時、受験の"じゅ"の字も考えず嵯峨野高校を選び受験しました。
 前置きが長くなりましたが、私が医学の道を選んだ理由、それは「母の死」です。嵯峨野高校に入学して間もなく、それまで癌で闘病していた母が42歳の若さで亡くなりました。
高校生活はとても楽しみました。超伝導実験や京都文化論、英語スピーチや地学部活動、文化祭の演劇、日々の勉強、シンガポール修学旅行など、純粋に楽しい時間でしたが、「喪失感」がなくなることはありませんでした。進路を考える頃になり、「母の命を奪った病気、特に癌に立ち向かいたい」という思いが強くなり、医学の道に進むのが最もその目標を達成するのに近道だと考えるようになりました。受験勉強・浪人生活を折れずに乗り越えられたのは、根底にある「癌への憎しみ」「癌に立ち向かいたい強い気持ち」があったからだと思います。
 医学の道に進んでからもそれぞれの専門、研究、教育、地域特性などで様々な道(活躍できる分野)がありますが、現在抗癌剤を扱う血液内科を専門とし、緩和医療や予防医学で目の前の患者さんと接し、地域に貢献したいと考えているのは、そのようなことが動機になっていると思います。

■高校での学びと大学での学びの繋がり

 嵯峨野高校では自然科学が好きで興味を持って学んでいました。単に受験のツールとしてだけではなく、自然現象の法則性や成り立ちを興味と好奇心を持って学び、そのことは現在の自分において、生体機能の理解、薬物の生体内での動態、代謝などの理解につながっています。また英語に関してはどの分野に進むにも国際共通言語として当たり前に必要となります。嵯峨野高校で英語教育に力をいれていただいていたことは、大学での学びや医師になってからの日々の研鑽においてもとても役にたっていると考えます。
 また、私は当時「京都文化論」※において、京都の企業の成り立ちについて調べてまとめました。医学の分野においても、産学連携や製薬企業とのコラボレーションがあり、京都の企業を通じて学んだことが企業を身近に感じる契機となっています。
※かつて(京都こすもす科開設時に)開講されていた専門科目です。

2021年4月 嵯峨野高校同級生の結婚式にて(了承を得て掲載)
筆者は最前列の一番左

【次回に続く】

 

先輩からのメッセージ


高校時代から授業中の集中力は目を見張るものがありました。好奇心旺盛で、興味をもったことには、常に諦めずにやりきろうという姿勢の持ち主でした。しかも、文中にもあるように、いつも楽しみながら。


2019年普通科卒業 中島 千都


この夏に、京都と東京で高校時代の友達に久しぶりに会いました。
1回生の時に一回会ったきりだったので実に3年ぶりの再会です。高校の時はあんなに毎日、同じ教室で過ごしていたのに、待ち合わせの場所に行くまで少し緊張すらしてしまいました(笑)。
でも、会ってみるとそんな緊張はすぐに忘れました。
だって、みんな高校のときから全く変わってなかったからです。
お酒を飲みながら喋っていると、
受験期ってなんだかんだ楽しかったよね」という話題になりました。
これは本当にその通りで、先日、卒業生講話で嵯峨野高校を訪れた際に、当時お世話になった先生から「あなたたちは楽しみながら勉強していたよね」と言われたので、傍から見てもそうだったのだと思います(笑)。

僕は2018年度に嵯峨野高校普通科を卒業して、そのまま京都大学総合人間学部に進学しました。嵯峨野高校入学当初の成績は京大合格にはほど遠く、楽しみながら勉強はしてはいたものの、内心はドキドキでした。
そんな時に親から「決心は九分の成就」という言葉をもらいました。覚悟を決めれば、物事の9割は成功したようなものという意味です。この言葉のおかげで、何の根拠もなかったですが、最後まで芯をもって受験勉強できたのだと思います。


僕もそうでしたが、高校生はふと「何のために勉強するのか」と疑問に思うことがあります(そして、それが修学意欲を減退させます)。個人的な意見ですが、高校生の勉強の意義は「勉強方法の勉強」にあると思います。たしかに個々の知識が今後の人生に役立つかは分かりませんが、何かをやり遂げる経験を通じて、物事を習得する自分なりのメゾットを高校生のうちに身につけられたかどうかは、今後の人生に大きく影響すると思います。別にやり遂げることは勉強でも部活動でも何でも構わないと思います。ただ、人から課された勉強に向き合える人は強いと思います。

偉そうなことを述べましたが、僕は大学に入ってからお世辞にも勉強を頑張ったとは言えません、、、、、部活一色でした。もともと競馬好き、馬好きだったこともあり大学で馬術部に入ってからはそればかりでした。でもそのおかげで日本中の大学生と知り合うことができたので、馬に感謝です。余談ですが、学生馬術では多くの引退競走馬が乗用馬として活躍しています。競馬では活躍できなかったけど、馬術というセカンドキャリアで輝くというのは素敵なことだなといつも思います。

僕もまだ22歳なので、「人生」という大きなテーマを語る資格はありませんが、生きている中でギャンブルに出るタイミングはいくつかあると思います。イマイチ進路を決めきれていない高校生のみなさん、そのタイミングが今でもいいんじゃないでしょうか。勝てば大儲け、負けてもマイナスじゃありません。安心してください。はじめに書いた通り、人ってそんな簡単に変わらないので(笑)。


↓ 旧帝大の交流戦で東北大学に行った時の様子です

 

先輩からのメッセージ
 在学中の彼女は常に控え目、でも穏やかで、誠実な人柄から周りの人に安心感を与えている人でした。周囲のムードや流行に流されることはなく、かといって周りに溶け込めないのではなく、誰とでも調和の取れる人でした。自分の進みたい道を見出し、そこに向けて部活動と両立をしながら、着実に歩みを進めていました。
 
 こんにちは初めまして、京都こすもす科自然科学系統を2017年に卒業した玉城萌佳と申します。私は現在、京都大学大学院の修士課程2回生で、化学の中でも特に高分子化学を専攻しています。来春からは化学メーカーに就職することが決まっています。今回は私自身の進路選択や大学院での研究について書かせていただこうと思います。


1. 高校時代の進路選択
といっても私は志望学部学科についてはほとんど悩まず、1年生の間には工学部の化学系学科に進学しようと決めていました。理由は2つあって、1つは単純に一番好きな学問が化学だったからです。小学校ぐらいから鉱石とか試験管に入った色鮮やかな液体とか、化学構造式とか、研究者っぽくて、かっこいいなあと思っていたタイプだったのです(笑)。もう1つの理由は、特殊な機能とか、性質を持った材料(例えば燃えない布とか)を作ることに興味があったからです。材料開発をするなら、理学部じゃなくて工学部だろうと思って、工学部化学科に決めました。実は化学科の受験には、ほぼ必須である数学が一番苦手だったため、悩む要素がない訳でもなかったのですが、当時の自分は成績とか現実的なことは、なんとかなるだろうで片づけて「興味があること」を優先していました。今振り返ってみると数学に関しては受験当日まで苦手意識がぬぐえず、かなり焦っていたし、結局ボーダーぎりぎりで合格、というなんとも結果オーライな感じでした(笑)。でも、おかげで来年から化学メーカーで機能性材料を作る、というドンピシャでやりたかったことができますし、「興味があること」を大事にして進路選択してよかったなと思っています。


2. 研究の難しさと楽しさ
私の大学では学部4回生で研究室に配属にされ、そこから自分のテーマをもって本格的に研究を始めます。私が自分の研究テーマについて最初に行った合成実験では、3回連続反応が全く進みませんでした。なんとその後も想定外の実験結果が続き、その原因も分からないというあり様でした。それまでの授業では、想定通りの結果が得られる「練習実験」しか、したことがなかったのです。未知からスタートする研究においては、想定した結果を得ることの難しさ(厳しさ)をしょっぱなから突き付けられました。初めの頃は実験結果に対する考察や打開策を提案することも難しくて、教授や先輩頼りだったため、自分には発想力がなく研究に向いていないのかなあ、と考えたりもしました。ただ、研究室の方々の取り組み方を見ているうちに、自分は発想力というより、圧倒的に知識量と実験のスキルが不足していると気づきました。そこからは関連研究の論文を沢山読んだり、研究室のメンバーとディスカッションしたり、上手くいかない実験でも少しずつ条件を変えて何度もトライしたりしました。すると、徐々に実験結果に対する考察や、アイデアの提案ができるようになってきました。そうやって学べば学ぶほど、できることが増えて、自分発信で研究が進んで、新しいことが分かっていくという実感が得られ、それが研究の楽しいところだと私は思ってます。


長々と読みづらい文章になっていたらすみません。私の経験談は一例にすぎませんが、在校生のみなさんの進路選択の一助となれていたら幸いです

 

先輩からのメッセージ


 今回、在校生に向けてのメッセージを送ってくれた先輩の高校生活を一言で表現すれば「自然体」
肩ひじ張らず、ひとつひとつの物事には丁寧に向き合いつつも、常にその姿勢は謙虚
出過ぎず、穏やかな振舞から周囲に信頼される人でした。


みなさん初めまして。
2017年に京都こすもす科共修コース自然科学系統を卒業しました、垣見宗馬と申します。現在、高知大学医学部医学科5年生として大学の附属病院で病院実習を行っています。


さて僕が後輩の皆さんに話せることはなんだろうと考えた時に、なぜこういった進路を歩むことになったのかが、最も聞きたいことかと思い話そうと思います。脚色無く話そうと思うので、皆さんの進路決定に役立てて頂ければと思います。
僕は嵯峨野高校に入学した当初から医師になりたくて、なんてことは全くありませんでした。なんなら僕は文系に進もうと考えていたくらいです。僕は長い間、やりたいことが見つからず、よく担任の先生との面談では「どう?やりたいこと決まった?」「いやあ、それが全然...(笑)」のようなやり取りをしていました。どうでしょう、皆さんにもこんな方はたくさんいるんじゃないでしょうか。僕もそんな生徒の一人でした。


そんな中、理系科目が凄く苦手というわけでもなかったので、後々文転は可能かもしれないが、理転は難しいという理由で理系を選択。そして理系として勉強を進め、科目選択では学部選びで幅が広がると思い、物理を選択。そして模試の志望校の欄にはとりあえず京阪神の工学部を書く(結構あるあるだと思ってるんですが、今の嵯峨野生はどうなんでしょうか。)、そんな日々が続きます。
そんな日々を過ごしていると、ふと僕は工学部に入った自分の姿を想像してみました。研究室でパソコンをたたきながら、ああでもない、こうでもないと何かを作成、研究している。残念ながらそんなビジョンは全く思い浮かばなかったのです。そのとき、ああ僕はそういうことがしたいんじゃないんだな、と深く感じた瞬間でした。


元々僕は人と話すことが好きで、何か物質に向き合うことで、社会に貢献するというよりかは、直接人と接することで社会に貢献することがしたいということに気づきました。では理系でそのような仕事ができるものとはなんだというと、その当時の僕は思いつきませんでした。
そのときに親や担任の先生にアドバイスをもらい、出てきたのが「医療」でした。しかし、僕は「え、じゃあ医学部?いやムリムリムリムリ!」と思いました(笑)。正直そこまで成績が足りていなかったのもありますし、何よりも医学部というものに必要以上にビビっていました。それが2年生の秋ごろだったと思います。
そのまま、うだうだ言いながら、何とかして他に自分に向いていそうなものはないかと考えていたんですが、これがなかなか見つからない...。時間も過ぎていき、進路を決めなくてはならない。よし、覚悟を決めて医学部目指すか!と思ったのが3年生の5月ごろ。そこからは頑張って医学部を目指して勉強しましたが、やはりここまでギリギリに決めて、間に合うほど医学部受験は甘い世界ではありませんでした。結果浪人することになります。
1年浪人した結果(正確にはAO入試なので半年とちょっとですが)、現在の高知大学医学部医学科に合格することになりました。これが僕の進路決定に至るまでの経緯です。


さあどうでしょうか、今回の僕の話は人によっては、「あ、そんな感じでいいんだ」という人もいれば、「なんだこの決め方、情けないな」という人もいると思います。僕が言いたいのは、最後はなるようになる(人それぞれ)ということです。たしかに僕の場合、2年生の秋ごろに早く覚悟を決めていれば現役で間に合っていたかもしれません、しかし今振り返れば、僕は浪人して、自分が医師になるということに対してしっかり向き合う時間を作ることができ、より目標を明確にすることができたので、無駄だったとは思いません。


進路に迷う皆さん、なかなかやりたいことが見つからない、進路が決まらない、とてもその気持ちわかります。僕は本当にやりたいことが見つかるまで、とにかく逃げの選択をしてみる、それもまたいいんじゃないかと思います。大学でやりたいことを見つける、そのためにできるだけ、いい大学に行っておく、みたいな選択でも僕はいいと思います。そしてどんどんやりたいことが変わっていっていいと思います。また僕も現在進行形で何科を志望するかコロコロ変えているところです(笑)。


いっぱい迷ってください、どんどん変えてください、最後は何とかなります。そして嵯峨野高校の先生は何とかサポートしてくれます、応援してくれます。
僕のこのブログを何人の方が見てくれているかわかりませんが、たまたま見てくれてた画面のあなたが納得して進路を選択することを願っております。

実習時の様子、医大生っぽいでしょうか?

高知県の柏島(かしわじま)というところです。
とにかくきれいなところなのでぜひ来てください。
ちなみに画像左中央で浮かんでるのが僕です。見えない(笑)

 

先輩からのメッセージ (8月25日掲載文の続き)

彼女は本校在学中の面談で、ドイツのどこの大学に行くかの相談をしていた時、ハイデルベルク大学は?と薦めてみると、その週末には下記のジョイントレクチャーに参加して、学長先生から名刺をいただいてきていました。恐るべき行動力と、夢をかなえるための持続力です。

小杉 泉 2019年京都こすもす科人間科学系統卒業


[大学選択]
もともと10人家族ということもあり、お金と時間を費やして大学に通うのであれば、何か有意義なものでないといけない、という気持ちがありました。
ドイツの大学に進学したい、と思ったきっかけは、ドイツの高校で受けた歴史の授業でした。ただ単語や年号を覚えるのではなく、自分自身が過去に身を置いて考える、というテストで、結果は散々でしたが、ドイツで歴史を学びたい、と思うきっかけになりました。
ハイデルベルク大学に進学を決めたのは、歴史学科で学べるものの質の高さに加え、2018年に京都大学で開催された「京都・ハイデルベルク・ジョイントレクチャー」という講義で複数の教授をはじめ学長の先生と知り合いになることができたからです。
塾には金銭面の問題もあり、最後まで通いませんでしたが、高校の授業をその分、集中して聴くことができたと思います。
奨学金(日本学生支援機構)の結果は2月に通達の予定でしたので、歴史を勉強するため、京都大学文学部も受験し、無事どちらも受かることができました。ところがその直後、日本かドイツかを3日間で決めなければならなくなりました。(大学合格通知の2日後に奨学金の合格通知が届いたため。)入学すれば卒業はほぼ確定の日本の大学に通って、数多くの先輩たちの通ってきた、いわば安心な道を行くのか、卒業できるかわからないし、授業も母国語ではない、でも、留学以来ずっと恋しかったドイツに戻るのか。迷っていた時に当時の担任の先生がドイツ行きの背中を押してくださいました。あの時の「でもドイツ行きたかったんやろ?」という言葉がなければ、今でもまだ日本にいたかもしれません。


[大学生活]

2019年から始まった大学生活は高校生の時よりもしんどかった、という印象です。学び方が全然違うことも理由の一つでしたし、それに加えてラテン語の習得も必須でしたので、勉強に追われる日々でした。高校では成績は良かった方ですが、大学では思うように点が取れず、教授からはプレゼンテーションを批判されたり、一か月費やしたレポートの書き直しを命じられたり、発表しても意見が通じなかったり、なによりも他のドイツ人学生と自分を比べて落ち込むことが多々ありました。
それでも、ドイツ人でも平均4年はかかる学士課程を3年間で卒業できる程に頑張ることができたのは、友人と家族のおかげでした。尊敬できる教授の存在も大きかったです。(写真4,5)

〔写真4〕週末に大学の友人とSchwarzwald(ドイツ南部 "黒い森")でお泊り

〔写真5〕尊敬する教授からのメッセージを邦訳された著作に書いていただきました。(訳:小杉さん、貴方がハイデルベルクの学生であることを喜ばしく思います。)


[最後に]
最近ヘルマンヘッセの『車輪の下』をドイツ語で読み終わりました。高校時代に自分自身と重ねて読んだ経験があります。おすすめです。アガサクリスティーの『茶色の服の男』もおすすめです。
けれども一番おすすめするのは、多少のリスクを伴いつつも、色々なことに挑戦することです。周りの人に何と言われようとも、人生は一度きりです。将来、近所の子どもたちに沢山思い出話をすることを想像してみてくださ。最終的には何とかなります。
「輝かしい人生」を送っているように思われる人は数多くいます。それは折れ線グラフの頂点だけをとった結果「華々しく見える」だけです。人それぞれ、興味を持つ分野・才能等は異なるもの、比較することに意味はありません。より多くの高校生の皆さんが既成の枠にとらわれず、自分の情熱を注げるものを見つけることができるよう願っています。

2日間にわたり掲載したメッセージを送ってくれた数日後、彼女から以下のメッセージが届きました。
「ハイデルベルクの日常を動画にまとめましたので是非一緒にリンクだけでも掲載していただければと思います。」
https://www.youtube.com/watch?v=Esx40YONMWY

 

卒業生からのメッセージ
今回メッセージを送ってくれたのは、在学中からとにかく積極的、好奇心も旺盛で様々な分野に前向きに取り組んでいた先輩です。ここまではよくある紹介文ですが、とにかく彼女がすごいのは、即行動に移す行動力、そしてそれを折れずに持続する力です。
ある作家が「〇〇したい人は10,000人いても、はじめる人は100人、そして続ける人は1人」と表現されていますが、まさに彼女はその1人といえる人です。

初めまして、京都こすもす科人間科学系統2019年度卒業生の小杉泉です。
卒業論文を提出し、卒業間近となったドイツ、ハイデルベルク大学の哲学系統歴史学科三回生です。


私の経歴を簡単に表にしてみました。
2014 スイス人の観光客との出会い
2016 嵯峨野高校入学
2017 ドイツ留学(10カ月[単位交換なし=高校は1年留年])
2019 嵯峨野高校卒業 後 ハイデルベルク大学進学(10月)
2022 ハイデルベルク大学卒業予定

[高校以前]
8人兄弟の5番目で、兄二人と弟二人の間で育ったことによって精神面を鍛えられたと思います。スイカを机から転がして落とすほどの腕力もあったとのこと。
人生の転換期となったのは14歳の時でした。陸上部の先輩の大会応援のためにバスに乗ったところ、ぎゅうぎゅう詰めで、一番後ろの5人席に座っていた、観光客と思われる一家が席を詰めて、座らせてくださいました。(写真1) 当時の習ったばかりの英語で、その人たちはスイス出身ということが判明し、早速図書館でスイスについての文献を読み漁りました。「ただの観光で行くのもあれやし、住みたいなあ」と一念発起、スイスの公用語の一つ、ドイツ語を学ぶためにドイツ留学の意思を固めました。

〔写真1〕人生を変えたスイス人の女の子とバス内で


[高校時代]
当時のメモ帳を見ると、様々な場所で出会った人々から得た知識や発想、それをもとに描いた将来像など、興味深い内容がびっしりと書いてあります。高校の先生ともよく将来について語り合いました。図書館は素晴らしい本が幅広くそろえてあり、司書の先生も大好きだったので足?く通っていました。当時図書室にいらした化学の先生と語ることも好きでした。職員室に行くことも多かったと思います。色々な先生がいらして、その時々異なる先生と話をしました。メモももちろん(ほとんど)常時携帯していました。私独特の「やかましい」ノックのおかげで、職員室にノックをしただけで、気づいてもらえるのは私だけだっただろう、という自負があります。開ける扉を間違え、印刷機にぶつかることも多々ありました。
留学前後を含め、高校生になってからは、人生で初めて尊敬し、追いつきたいと思える友人が数多くできました。留学後のクラスでできた友人の中でも、ある一人とは、よくいろんな分野の話をしました。政治や宗教に至るまでの話ができた貴重な相手だったと思います。こうした経験は、自分らしさを探求しはじめるきっかけになったと思います。


[留学中]
留学前はドイツ語は全く話せませんでした。せっかく奨学金(トビタテ留学Japan)をもらえるのだから、ドイツ語は絶対習得したい、と意気込み、SNSは見ず、必要な連絡は全て英語で行ってもらいました。最初は友達もできず、学食での沈黙が苦痛でした。テストでは問題文自体が理解できず、号泣して机にティッシュの山ができたこともありました。ドイツ語が徐々に話せるようになると、日常生活がかなり楽になったと思います。また、留学期間を通じて世界各国からの友達ができたのも、留学で得た、かけがえのない宝物です。(写真2) 留学中のカルチャーショックよりは、帰ってきてからのショックのほうが大きかったように思います。日常生活において、些細に見えることに対する見方を変えてくれた経験でした。

〔写真2〕メキシコ・スイス・アルゼンチンからの留学生の友人

〔写真3〕哲学の講義中 後ろは教室の窓
テラスに出るとハイデルベルク城が見えます。

 

先輩からのメッセージ
  京都こすもす科共修コース人間科学系統2019年卒業 野見山芽久より


Vo2 「嵯峨野高校編」
私にとって嵯峨野高校は今の私をつくってくれた大切な場所です。私が海外と日本の架け橋になりたいという夢を抱くようになったのも嵯峨野高校で過ごした日々があったからです。嵯峨野高校ではシンガポール研修旅行やアメリカ・フロリダ研修、海外の学生との交流会など、海外の人や文化と接する機会が多くありました。また、これらのイベントだけでなくALTの先生やクラスメイトの存在も大きかったです。私が在学していた当時のALTの先生はラボの先生でもあり部活の顧問の先生でもあったため、お話しする機会が多くありました。その先生からは英語だけでなく、先生の出身地であるアメリカ・フロリダ州のことやアメリカの文化について教えていただき、さらにアメリカ・フロリダ研修(下写真)に応募するきっかけをつくってくださいました。

 2年生の時のクラスには、1年間のスペイン留学とドイツ留学からそれぞれ帰って来た2人の友達と、中国からの帰国子女の友達がいました。彼女たちはそれぞれドイツ語・スペイン語・中国語が話せるので、英語の授業中によく英単語とその言語の単語を比べたり、それぞれの国の話で盛り上がったりしていました。私はその話をいつも興味津々で聞いていましたし、英語以外の言語の知識がある3人がとても羨ましかったです。彼女たちの他にも休み時間に普段の何気ない会話も英語でしているディベート部の2人組がいました。今思えば、2年生の時のクラスは国際色の強いクラスだったように思います。そんなクラスメイトからも刺激を受け、大学で外国語を学ぶという選択をしました。嵯峨野高校に通っていなかったら、これほど海外と接点をもつことがなかったでしょうし、今の自分もなかったと思います。
 嵯峨野高校に入学して学べたことに、とても満足していますが、唯一心残りがあります。それは部活動をもっと楽しめばよかったということです。私は在学中、バレーボール部に所属していました。朝練はなく、基本的には木曜日のオフ以外は毎日部活をしていました。1つ上の先輩方が引退するまでは、ただ「先輩方についていけばいいんだ!」と気楽に楽しみながら部活に取り組んでいました。充実していました。しかし、先輩方がいなくなり、私の学年が後輩たちを引っ張っていかなければならなくなってからは、不安とストレスが溜まり、受け身で部活をすることが多くなりました。練習に行きたくない日が増えました。私がいる意味なんてあるのかなぁ、とネガティブな思考が頭をよぎり、プレーにも、最高学年としての振る舞いに対しても、自信が持てませんでした。あの頃は本当に部活を心から楽しめず、全力を注げていなかったと思います。大学生になった今、部活動は何もしていません。仲間と汗を流し、支え合いながら苦しみや喜びを分かち合った時間は高校の部活動が最後でした。いまだからこそ思える、あの貴重な時間をもっと楽しんで、大切にするべきだったと後悔しています。部活動をしている皆さんには、私のように後悔することのない時間を過ごしてほしいです。
何をするにしても楽しむことを忘れないでください。

 

先輩からのメッセージ

 今回は本人の文中にもありますが、どちらかと言えば控えめ、そんなに前へ、前へと出るタイプではないものの、興味の幅は多岐にわたり、様々なこと真摯に向き合ってきた先輩です。在学中も、卒業後もいろいろと模索して自分の現状を打ち破ろうと努力を重ねてこられました。
 今回のメッセージは Vol1 「ポーランド編」 とVol2「嵯峨野高校編」に分けて掲載します。

Vol1「ポーランド編」
 こんにちは。2019年に京都こすもす科共修コース人間科学系統を卒業した野見山芽久と申します。現在は、東京外国語大学・言語文化学部にてポーランド語を専攻しています。今年の7月中旬まで10ヶ月間ポーランドに留学をしていました。

 みなさんの多くが「なぜポーランドなの?」という疑問を抱かれたのではないでしょうか。私がポーランドという国を選んだ理由は2つあります。
 [難しい言語への挑戦] 1つは、将来は海外と日本を繋げる仕事がしたくて、独学では勉強できないような難しい言語を大学でゼロから専門的に学び習得しようと思ったからです。ポーランド語は世界で最も難しい言語の1つと言われています。例えば、動詞で言えば主語の人称や単数・複数の区別、時制に応じて単語の語尾が19通りに変化するため、1つの動詞に対して19通りの活用変化を覚えなければなりません。その他にも様々な文法のルールがあり、ポーランド語はとても複雑で英語の数十倍も難しい言語なのです。そのようなポーランド語の世界に、私は好奇心を抱き、持ち前のチャレンジ精神で飛び込みました。

[悲劇の国の熱い思い] 2つ目の理由としては、暗い歴史の中で途絶えることなく伝えられてきたポーランドの文化と言語に心を動かされたからです。ポーランドは3つの大国によって分割され、1795年から123年間、消滅して地図上に存在しなかった過去があります。この分割時代において、学校や裁判所、役所などの公的機関での公用語はロシア語とドイツ語とされ、ポーランド語の使用は禁止されました。さらに、自由な芸術活動も禁止されていました。しかし、ポーランドの文化や言語は失われることなく今日まで残っています。それは、当時の愛国心に燃えるポーランド人が地下で執筆活動をしたり、隠れてポーランド語を子供たちに教えたりと、自国の文化や言語を絶やさないように努力したからです。そのような背景をもつポーランドの文化やポーランド語に魅力を感じ、より深く学びたいと思いポーランドという国を選びました。
 私が留学していたのは、ポーランド北部・トルンという都市にあるニコラウス・コペルニクス大学です。トルンは地動説を唱えたコペルニクスが生誕した街です。それほど大きな街ではありませんが、中世の街並みが残っており世界遺産にも登録されている美しく、とても住みやすい街です。そんなトルンで、ポーランドの文化に触れながらポーランド語を必死に勉強しました。
〈トルン旧市庁舎とコペルニクス像〉

 ポーランド留学を経て何より感じたのは、どれだけ良い環境があったとしても、その環境の中でどのような成果や経験を得られるかは自分の行動次第だということです。例えば、ポーランドでの生活は毎日ポーランド語に触れることができ、ポーランド語学習に最適な環境が整っていますが、そのように望ましい環境にいたとしても、外出して積極的に誰かと交流するのと寮の部屋にずっと1人で閉じこもっているのとでは、ポーランド語を聞く機会や話す機会の量に大きな差が生じます。誰かが手を貸してくれるのを待ったり、ただ時が来るのを待っているだけでは何も始まりません。ポーランドでの10ヶ月間で、自分が得るべきものや経験を手に入れるためには自ら行動すること、自らチャンスを掴みに行くことが大切だということを身に染みて感じました。私は消極的で内気な性格ですが、留学期間中は同じ大学の日本学科の授業に参加させていただき、そこでポーランド人の友達を増やす努力をしたり、隣のウクライナでロシア軍の侵攻が始まってからは、ウクライナ支援をしているポーランド人やポーランドで生活しているウクライナ人学生にインタビューをし、それを動画にして配信するなど、自分がポーランドにいるからこそ出来ることを探して積極的に行動するようにしていました。そのおかげで日本では経験できないような様々なことを経験することができましたし、ポーランド語の能力も向上したように感じます。嵯峨野高校に通う皆さんにも、ご自身がいる環境にただ満足するだけではなく、その環境で自分が更に成長し成功するためには何をすべきかをしっかり考え、積極的に行動してほしいと思います。

 

先輩からのメッセージ


 今回はグローバルな分野で活躍されている先輩、またそのような社会貢献を目指しておられる先輩からのメッセージを連続で掲載します。
お二人にはグローバルな経験・視点からのメッセージを依頼しました。2022年最大の社会問題は、やはりウクライナ情勢でしょう。くしくも、お二人ともこのテーマについて触れられています。いろんな世代の方と交流する機会が増えるこの時期、在校生の皆さんもいろいろ考え、学びの幅を広げるためにも、じっくり読んで考えてみてください。


今日は、まずお一人目、高校在学中から視野が広く、直面する問題に対しては傍観せず、"自分ごと"として考えることができていた先輩です。クラス内の人間関係から国際問題まで常によく周りが見えていました。定期テストの論述問題の的を射た解答も印象的です。
今回の件を依頼した時もアメリカへの短期出張中で、帰国後すぐに記述してくださいました。選挙権を得る年齢に達した3年生に特に読んで欲しい文章になっています。


 こんにちは 2003年京都こすもす科人文芸術系統※卒業生の大竹伸平と申します。京都大学、同大学院を卒業後、外務省に入省し、現在は、中長期的な外交政策の企画立案を担当する部署で働いています。

※当時は自然科学系統と国際文化系統さらに人文芸術系統の3系統が設置され、その後の学科改編を経て、現在は人間科学系統となっています。


 私が高校2年生だった2001年9月に米国で同時多発テロ事件が発生しました。当時はその背景・影響を十分に理解できていたとは言いがたいですが、テロ組織が国家、それも米国という超大国にとっての直接の脅威となったという点で国際社会に1つの変化をもたらす事件でした。私も、同世代の多くと同様に、この事件をきっかけに国際関係に関心を持ち、大学では国際法を専攻し、今の職業へと至っています。
 現在、国際社会は当時以上に大きな変化の時期に入っています。今年の2月に始まったロシアによるウクライナ侵略については、皆さんも報道等で御存じかと思います。侵略を目的とする戦争、武力の行使は、(世界史の授業でお馴染みのとおり)1928年のパリ不戦条約を経て、第二次世界大戦の教訓を踏まえつつ、1945年の国連憲章において明確に禁じられています。今回のロシアの行為は、このように国際社会が過去1世紀にわたり守り育ててきた国際秩序への挑戦であり、これに対して国際社会がいかに行動するかが、今後数十年の世界のあり方を決めると言っても過言ではないでしょう。
 高校生活では、日々の勉強を始め、学ぶべきことが山積みかと思います。それは同時に、成人、社会の一員となるために必要な知識が揃いつつあるということでもあります。もちろん、外交や国際関係を今後深く学ぶかは皆さんの関心次第ですし、ましてそれを将来の職業にまでつなげたい方は少数かと思います。しかし、この歴史の転換期の先を生きる皆さんにこそ、この先の世界、国際秩序がどうあるべきかを、我が事として考えてもらわなければなりません。
 ウクライナ情勢、あるいは日本を取り巻く地域の安全についても、現在の国際社会が全てに上手く対処できているわけではありません。国際社会は弱肉強食の世界だと、不安に思われる方も多いでしょう。しかし、力の強い国が弱い国を力尽くで従わせる世界が、人々に平和と繁栄をもたらさないことを、私たちは歴史を通じて学んでいます。そして、それ故に国際社会は、ルールに基づく国際秩序を、努力と対話と合意によって築き上げてきました。
 どの国にも一方的なルール違反を許さない、この秩序が十分な力を持つには、それが多くの国に支えられ、そして、それぞれの国が秩序を守る強い意志を持つことが必要です。前者について、外務省では、ルールに基づく秩序を共に支える仲間を増やすべく、国連や有志国グループ、あるいは二国間での議論を日々重ねています。一方で、後者、「国」の意思とは、民主主義国家においては、国民一人ひとりの意思に他なりません。ロシアのウクライナ侵略に対して、日本は当初から強い非難の意思を示し、ウクライナの人々への支援を続けています。この政府の対応も、日本国民からの強い支持があってこそ可能になっています。
 

 皆さんはもとより日本国民ですが、18歳になり選挙権を得た方から、日本という国の意思決定に直接参加することになります(外国籍の方は、それぞれの国との関係に置き換えてください。)。アジアにおいて最初に民主主義や人権の擁護を進め、平和国家として世界の平和と繁栄に貢献してきた日本という「国」の声には、皆さんが思う以上に世界が注目しています。皆さんは、世界が100年に一度の困難を抱える時期に、この「声」を作る立場に立ち、または立とうとしています。世界の出来事を自分自身のこととして捉えるのは中々難しくはありますが、忙しい学校生活の合間に、少し立ち止まって、日本が、世界が取り組むべき課題について考えてみてください。考えるための材料が必要であれば、きっと先生方も協力してくれるはずです。


(よろしければ、外務省が作成している外交青書(https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/index.html)も御参考下さい。)
 皆さんの高校生活が、世界に視野を広げ、そのあるべき姿について考えを深める時間となることを期待しています。


(本稿で述べられた見解は著者個人のものであり、所属する組織のものではありません。)

 

先輩からのメッセージ (7月21日寄稿文の続編です。)
二宮亜由美(2017年京都こすもす科自然科学系統卒業)

...また、環境教育の講師として子供たちに森の役割を教えることもあります。「森ってすごいんだね」と小学生が目を輝かせながら言ってくれるのを聞いた時には、「これこそやりたかったことだ!」と強く思いました。 (7月21日末節写し)

【森の先生として親子向け環境教育で簡単な実験をする様子】

最後に、「やりたいことが見つかっていない」進路に迷える生徒の皆さんに向けてメッセージを伝えさせてください。
少しの好奇心も大切に、頭で考える前にまず行動してみること、これがやりたいことに出会うための第一歩です。色んなことに挑戦して、たくさんの人に出会って、多種多様なジャンルの話を聞く、この積み重ねが大きくなるほど興味の濃淡がはっきりするようになります。
これが、高校、大学時代を「やりたいこと」が見つからない葛藤の中で過ごしてきた私が見つけた「やりたいこと」に出会う方法です。
この文章を書きながら振り返った時、色んな人の顔が思い浮かびます。
高校時代に参加したフロリダ研修で出会った方々
京都大学高大連携プログラムELCASの探究心が強すぎる仲間たち...
大学時代に演習先で出会った農家・漁師・かやぶき職人さんたち
1人旅で出会った酪農家の方、ゲストハウスのオーナー
フェアトレードのボランティアで出会った力強く生きるフィリピンのお母さんたち...

【フィリピンの山奥で伝統工芸のマクラメ編みを学ぶ様子】     


「輝いていて素敵な人」は自分の興味の芽を育てて、一流まで極めている人だということを知りました。
進路を迷っているという状態に焦りを感じるのではなく、「選択肢がたくさんある」と思って、ぜひゆっくり自分自身と向き合ってください。そして、「やりたいこと」が見つかった時、全力を注いでください。
 この文章が、少しでも当時の私のような進路に悩んでいる方の支えになれば幸いです。

彼女がこの文章を送信してくれたメール文の末尾には次のような一節が添えてありました。
「自分の学生時代を振り返る良い機会になりました。働いていたら見失いかけることもある「自分の軸」を再認識できて、とてもよかったです。」

さあ行動に移そう。自分軸を築くために。

 

先輩からのメッセージ
 今回嵯峨野生のためにメッセージを寄せてくれたのは、在学中から様々なことに興味をもち、即行動に移し、さらに新たな興味の芽を膨らませるという高校時代を送っていた先輩です。水泳部の活動を続けながら懸命に高校生活を駆け抜けた、そんな印象です。

こんにちは2017年京都こすもす科共修コース自然科学系統卒業の二宮亜由美と申します。
 2021年に京都府立大学を卒業し、現在は大分県に事務所を構える九州林産株式会社林業部※で、森林管理の仕事をしています。高校、大学での学び・経験を通してどう進路を決めたかと、現在の仕事の内容についてご紹介します。
※九州林産とは下記の業務を担う九州電力グループの企業です。
発電所の緑化工事・公共の都市公園整備工事・高速道路緑化工事
九州電力が保有する森林管理他を業務とする。(九州林産HPより抜粋)

1.「森林」との出会い

 幼少期から高校時代に至るまで森林との関わりは全くありませんでした。  
 そんな私の転機となったのは、嵯峨野高校がスーパーグローバルハイスクールの認定を受けていた際に参加した10日間のフロリダ研修です。事前学習として、日本の自然を現地の高校生に紹介するスライドを作っていた時、「日本の国土面積の7割が森林」だと知って、驚愕したのを覚えています。
 いざフロリダに行ってみると、視界に森林が入ることはなく、森林が日常の風景の中に存在していることが当たり前でないことを知りました。同時に、「静かに存在している」森林がどんなもので、どんなふうに私たちの生活とかかわっているのかについて興味を持ち、森林について学ぶべく京都府立大学生命環境学部森林科学科に進学することを決めました。

ジュピター高校(フロリダ)の授業で訪れたエバーグレーズ国立公園


2.大学での学び


 大学では、森林について、生物的、物理的、化学的な視点から幅広く学びました。
 森林について知識が深まっていく中で、「管理されていない森林が増加している」こと、言い換えるならば「森と人に距離がある」現状を変えたいという思うようになりました。就職活動は、この思いを軸に、持続可能な森林管理と未来を担う子供たちに向けて環境教育を行っている会社を探し、縁あって今に至ります。

3.仕事について


 仕事の内容としては、主に九州電力社有林の管理です。総面積4447haのうちの一部が担当山林として与えられており、森林の状態を見て下刈り、除伐(枝打ち)、間伐といった施業の計画・発注をします。
 林業の現場の知識がほとんどないのにも関わらず、経験が豊富で現場をよく知っている協力会社の方に作業を指示するということがとても大変です。加えて、大分訛りがとても強く、意思の疎通ですら困難な時があります。
 その壁を乗り越えて初めて発注した間伐作業では、作業前の森林と比較して光がよく入る健全な森林へ導けたという実感があり、やりがいを感じました。
 また、環境教育の講師として子供たちに森の役割を教えることもあります。「森ってすごいんだね」と小学生が目を輝かせながら言ってくれるのを聞いた時には、「これこそやりたかったことだ!」と強く思いました。

次回につづく

 

先輩からのメッセージ


 ある日の「〇〇ステーション」に今日の日本が抱える教育課題について語る国家公務員が出演されていました。落ち着いた語りではありますが、あの頃の面影がはっきりと見えました。
今回はそんな先輩の経験談です。


こんにちは、京都こすもす科(人文芸術系統※) 第5期生(平成15年3月卒業)大野 雅史(おおの まさし)といいます。京都大学法学部を卒業後、文部科学省に入省し、15年目を迎えています。現在は期間限定で島根県教育委員会に出向中です。
  ※現在は「人文芸術系統」と「国際文化系統」を統合し改編のうえ「人間科学系統」となっています。

[仕事選び]
 教育行政に携わってみて、改めて、その凄さを実感しているのですが、嵯峨野高校は、一般的な「勉強」に留まらない独特のカリキュラムに基づき、様々な地域から集まる個性豊かなクラスメイトたちと学びを深めることのできる学校・学科だと思います。私の頃よりさらに進化した嵯峨野高校で今、学べる皆さんが羨ましい限りです。
 そもそも、今の職業を選ぶきっかけ、と言えることは、嵯峨野高校で、個性的できらりと光るクラスメイト・先生方と出会い、自分の人生が大きく変わったという思いがあり、そこから学校教育の重要性を実感したことが根底にあると思います。
 そして、その後のサークル活動などの経験を通して、自分自身がプレーヤー(学校教育で言うと教員)になるよりは、プレーヤーが最大限力を発揮できる環境を整えることに、やりがいを感じる性格だと気づきました。文部科学省では、国全体の視点で制度・枠組自体を変える大きな仕事が出来るとともに、教育だけでなく、科学技術・文化・スポーツと幅広い業務を経験できること。また、職員の方々の雰囲気が柔らかく、自分に合っていると感じたことなどなど様々な理由が思い起こされます。
 ただし私はサークル活動等に没頭しているうちに、就職活動の時期を逸してしまい、新卒でないと就職上不利になるということをちゃんと理解しておらず、とても慌てました。最終的には、文部科学省に滑り込みで就職できたので結果オーライなのですが、いま思うと相当危ない橋を渡っていました(汗)。

[高校時代]
 2人のクラスメイトと一緒に、とある伝統芸能に関するフィールドワークに行った際、事前の勉強・研究が不十分で的確な質問等ができず、かなり早い段階で見学を打ち切られてしまったこと(先生にはおそらくバレてなかったはず(笑))
 本当は遊び程度にしかやってないのに、調子に乗って「ギターが弾ける」と呟いた結果、文化祭で演奏する羽目になったこと(幸い、ごく短時間の簡単なフレーズだけだったので、必死で練習して何とか事なきを得ました(汗))。等々
たくさんの焦った(今となっては楽しい)思い出があります。
 中でも一番きつかったのはセンター試験(現在は共通テスト)本番、国語の時間に、寝不足と緊張、問題の難しさなどが相まって、頭が真っ白になり、かなりの問題を勘でマークすることにり、当然ながら結果も散々で、志望校を決める際にかなり悩むことになりました。でも様々な人の励ましがあり、自分(のやってきたこと)を信じて、第一志望校を変えずに突っ走り、何とか結果オーライとなりました。周りの人の声に耳を傾け、最後は自分を信じてよかったと思っています。

〔大学での専門〕
 京都大学法学部は非常に自由な雰囲気で(卒論なし、ゼミも必須ではなかった)、特定の専門を突き詰めるというよりは、憲法・民法・刑法といった基礎的な法令のほか、行政法、労働法・労働政策、法社会学などを幅広くつまみ食いしていました。専門科目以上に、教養科目(例:哲学・倫理、言語学、中国古典、脳科学、宇宙)が楽しかったことが印象に残っています。何か一つに決めきれない、決めたくない人にはオススメです。高校の勉強も何かに絞るのではなく、いろんな科目を幅広くしっかり学んでください。そしてその上で何か一つに打ち込むことが大切だと思います。
 長くなりましたが、語りつくせません。何か気になることがありましたら、気軽に(先生を通じて)御連絡下さい。
私の拙い経験談が後輩の皆さんのお役に立てればこんなにうれしいことはありません。

 

先輩からの激励メッセージ  6月15日掲載文の続編です。


京都こすもす科共修コース自然科学系統2017年卒業
東北大学大学院農学研究科
秋 山 千 皓


進学後2年程は、「アカデミアに身を置くということはどういうことなのか」を考える為にアメリカで研究インターシップをしたり
(国際学生交流プログラム助成 | 公益財団法人中谷医工計測技術振興財団 (nakatani-foundation.jp)),
「途上国に足を運んで働くとはどういうことなにか」を考える為にスリランカでボランティア活動に参加したり
(グローバル・ビレッジ | ハビタット・フォー・ヒューマニティ・ジャパン(habitatjp.org))、
と今の私も驚くくらいのバイタリティであれやこれやと手を出していました。

そういった経験を経る中で「ビジネスを以て開発に資する人間になりたい」と想うようになり、民間企業への就職を選択肢にいれるようになりました。
学問に関していえば、「どちらかを選べない」という理由で進学した東北大学で、結果どちらを諦めることもなく、理系の研究室に所属しながら文系のゼミにも参加する、というなんとも贅沢な環境を享受しています。
 色々と書いてしまいましたが、最後にお伝えしたいことを。
自分の興味や苦手なことを、是非周囲に伝えてみてください
かくいう私も、高校生までは上手く周りに頼れず、「出来る自分でいなきゃ」と思い続けていました(実体は伴っていませんでしたが)。
嵯峨野生にはこういうタイプの人が結構多いのではと、私は勝手に思っています。
私の場合は、留学中や帰国後に人に頼らないとやっていけないような状態になって初めて、頼ることの意義、そして自分が頼ることで喜んでくれる周囲の存在に気付かされました。大学在学中に経験した色々も、自分で探し出したというよりかは、周りに「あれやりたい」「これ苦手」とあっけらかんと伝える中で「千皓はきっとこれが好きだよ」と紹介してもらったものばかりです。
自分を引き上げてくれる周囲の方々に出会えたこと、これが私がこれまでの人生で得た最も大きな財産だと思っています。
もし、私が皆さんの "周囲の方々" の片隅に置いていただけるなら、是非先生を通じてなどしてご連絡ください (東北大学にいる嵯峨野卒業生はレアなので...)。


皆さんの学生生活が素敵なものになるよう、仙台から応援しています。


P.S. 本文中に埋め込んだリンクはしっかりと宣伝です、笑
 大学生活を彩るための一選択肢として、よかったら覗いてみてください。

 
雪の日の東北大学キャンパス

素敵な写真があります。
暗いニュースが多い中、慈愛に満ちた瞬間、ずっと見ていたくなります。
この写真に写っている女性は本校の卒業生です。
在学中は理系クラスに在籍しつつも、分野を問わずいろんなことに関心を持ち貪欲に学んでいた生徒です。
今回そんな彼女から在校生に向けてメッセージを送っていただきました。
コロナ禍の今と少し状況は異なりますが、とても参考になる文章を書いてくださいました。
2回に分けてお伝えしますが、後日掲載する後半のメッセージには心が解放される(救われたような気持ちになれる)人が多いはずです。


こんにちは。
2017年に嵯峨野高校京都こすもす科共修コース自然科学系統を卒業しました、秋山千皓と申します。
現在は東北大学大学院農学研究科に通っており、来年の4月からは総合商社で働くことが決まっています。

何についてお話ししようかと迷ったのですが、「嵯峨野生の進路選択に役立つ文章を」とのことでしたので、一卒業生の例として、嵯峨野在学時から今の私に至る経緯をつらつらと綴らせていただければと思います。


私の人生に大きな影響を与えたのは、高校二年時のカナダ留学でした。
府立高校海外サテライト事業という京都府教育委員会のプログラムの一期生として、留学費用の半分程を支援していただく形でケベック州の Lester B. Person High School に4ヶ月間通っていました。
留学中に目にした、路上にいるホームレスの方々、当時のホットトピックであった "移民の受け入れ" に関して喧嘩になるほど意見を戦わせるクラスメート達。そういった出来事に「自分はいかに世間・世界を知らないか」を思い知らされ、国際開発問題に興味を持つようになりました。
そして帰国後、生物選択だった (大学入試制度が変わったようなので現在はわかりませんが、当時は生物か物理を選んで履修していました) 私の興味はおのずと「食」「農村」「食糧危機」に向かっていきました。


東北大学を選んだのは、受験時に学科を選択しなくて良かったからです。
国際開発学といった文系寄りの学問と、遺伝学といった理系寄りの学問の双方を農学部では学べるのですが、決めきれなかった私は考える猶予のある東北大学に進学しました。 (AO入試で合格した、関西を出たかったという堂々とは言えない理由もありましたが..)。

つづく

 

こんにちは。
京都こすもす科4期生、2002年卒業の丹所千佳です。
前回(6月2日)からの続きです。


今の会社に入ったのは、完全になりゆきというか、ご縁だと思います。
しいていえば、最初に内定が出たことと、東京のほかに京都にもオフィスがあるということでしょうか。
いずれ京都で働くことがあってもいいかも、とそのときは漠然と思っていましたが、今となっては、京都で働けるという点は私にとってかなり大きいです。


入社してすぐは東京で書籍(PHP新書)の編集に携わり、その後京都の雑誌の編集部に転勤して今にいたります。
昨年の10月からは月刊誌『PHP』の編集長を務めていて、今年の4月は雑誌の創刊75周年記念ということで、新聞やテレビなどに出る機会がありました。
(それを目にした嵯峨野の先生にお声がけいただき、今回、これを書いています)


ひとことで言うと、「企画を考えて、それを形にし、世に出す」のが編集者の仕事です。
そのいずれの段階でも、思うようにいかないこと、予定通り進まないことは少なくありませんが、その難しさや大変さもまた、やりがいであり醍醐味だと私は思っています。
それだけに、書籍や雑誌ができあがり、それを読んだ人からの反響があると、喜びもひとしおです。


高校生のみなさんが書籍や雑誌の編集者を志すとしたら、まずは本をたくさん読んでください。
自分自身の好奇心をいかに広げ、興味関心を深めるかということを大切にしてほしいです。
本だけでなく、映画や音楽、旅、人と話をすること、なんでもかまいません。
それから、そうやって触れた物事について、言葉にしてみるのもいいと思います。
編集者の仕事は自分で書いたり話したりすることがメインではありませんが、言語化する力は重要です。


でも何よりも今この時間を満喫するのが一番だと思います。
まだまだコロナ禍で不自由の多い日々が続くかもしれませんが、楽しい高校生活を送ってください。

 

高校で担任をしてきて、つくづく思うこと。卒業生は学校にとっての宝物です。今年4月の新聞に、ある卒業生が取り上げられていました。彼女は現在在学中の生徒たちと同じように、あの頃、誠実に前を見て、ある時は壁にぶつかりながらも、精一杯の高校生活を送っていました。そして卒業後も前をのみ見つめ、自分の道を切り拓いてきた"先輩"です。そんな彼女から在校生にメッセージを送っていただきました。2回に分けて紹介します。


こんにちは。
京都こすもす科4期生、2002年卒業の丹所千佳と申します。
PHP研究所という会社で編集の仕事をしています。2002年に東京大学に進学し、美術史を選びました。


受験のときから美術史や芸術学を学びたいと思っていて、院への進学を考えたこともありましたが、「自分には向いていないかも」「とりあえず社会に出て働こうかな」という気持ちになり、普通に就活をしました。


2006年卒は、就職氷河期と呼ばれる就職難時代が束の間やわらいだときのようで、新卒採用の数自体はけっこう多かったと思います。それもあって、あまり業種などにこだわらず、メーカーや金融、都市開発やデベロッパーなど、いろいろ受けてみました。
しかし結局、選考が進んだ会社の多くが出版関係でした(金融あたりはすぐ落ちました)。


最初は絵本の編集者になりたいと思っていました。学生時代にアルバイトをしていた紅茶店のオーナーが絵本作家でもあったこと、お店のすぐ隣に絵本屋さん兼ギャラリーがあったことなどから、絵本を編集するという仕事に興味を持ちました。絵本や児童書を数多く出している出版社を第一志望群として、ほかにも新卒の募集がある出版社をいろいろ受けました。


ただ、大手の出版社は受けませんでした。
編集者を志している人の大半は受けるようなのですが(記念受験も含め)、私は、いわゆるゴシップ記事などを扱う週刊誌を出している会社は避けたかったのです。
「そんなものを出すなんてけしからん」という潔癖さではなく、もしも自分が入社したとして(皮算用ですが)、週刊誌の編集部に配属されたら嫌だなと思ったからです(新入社員は週刊誌に配属されることが多いと聞いていたので)。
今思えば若さゆえの短絡さなのですが、いたしかたありません。
ちなみに、それらの出版社の本や雑誌にはもちろんいいものも多いですし、私も好きな本がたくさんあります。念のため...。

 

今回のブログでは、先日来校した卒業生から、在校生へ向けたメッセージを預かったので、紹介します。


こんにちは、2016年京都こすもす科卒業の西村凜太郎です。写真の黒ユニフォーム#73が私です。高校時代はバスケットボール部に所属していました。今日は皆さんに京都大学と自分が所属していた京大アメリカンフットボール部の魅力についてお伝えしたいと思います。
①京都大学の魅力 まずはなんと言っても自由な学風です。自分がやりたいと思ったことはできますし、学びたいことを学べます。私は理学部なのですが、一回生の頃は宗教学や、経済学などを履修していました。 また別の魅力として、『最前線』であることが挙げられます。京都大学は、イメージにもあるかと思いますが、さまざまな分野で世界の最前線にいます。そして実際にそこにいる教授から直接講義を受けたり、その教授のもとで研究をしたりと言ったことが可能です。決して入学のハードルは低くありませんが、それを乗り越えた先に素晴らしい学生生活が待っています。
②京大アメフト部の魅力 まず、皆さんはアメリカンフットボールを見たことがあるでしょうか。みたことない方、是非見てみてください。 京大アメフト部は日本一を目指しています。スポーツ推薦などで人材が豊富な強豪私学を倒して素人集団の京都大学が日本一になる。こんなに痛快なことがあるでしょうか。人生においてスポーツで日本一を目指して戦う経験というのはそうそうできる経験ではありません。そういう経験をしたい人、ぜひ京都大学に入学した暁にはアメフト部の門を叩いてください。

 
 
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